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  • 執筆者の写真澤隆志

#1 今井俊介




今井俊介(いまい・しゅんすけ)

1978 福井県生まれ 2004 武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了 主な展覧会に「range finder」Kunstverein Grafschaft Bentheim, Neuenhaus(ドイツ、2019)、「MOTコレクション ただいま/はじめまして」東京都現代美術館(東京、2019)、「float」HAGIWARA PROJECTS(東京、2017)、 「絵画の在りか」 オペラシティアートギャラリー(東京、2014)、 「surface / volume」 HAGIWARA PROJECTS(東京、2014)など。



― 今回「画家の不在」という展覧会タイトルで作品タイトルでもあって、その広報も兼ねて「画家を訪ねて」と題して画家や写真家などアーティストに見てもらって、その不思議を一緒に味わおうという企画なのです。

今井氏の絵画がレンズを通して投影される

今井俊介(IS) おおお映ってる!

五島一浩(GK) この作品のコンセプトというのは、誰の意志もないのに装置や原理があるだけで像ができる。だとしたら、僕らの意志ってなんだろう、みたいな。

IS キャンバスに映そうとしたきっかけはなんですか?

GK 映像の授業で、カメラ・オブスクラを再現すると学生の反応が良かったので、自分の作品でもなにかやってみようというのと、キャンバスにレンズというシンプルな組み合わせがセットでもありデバイスでもあることに面白さを感じました。クリアに像ができると、見る人によっては、機械がどこかに隠れてると思っちゃうくらい。僕はメディア・アーティストでもあるんですが、最近は脱デジタル、脱デバイスで...

レンズを吊るのにちょうどよかったのが刺繍枠で、サイズが色々あって便利でした。また、刺繍は元祖ドット絵とも言えるので、デジタルアートとの関連性もあります。

― イマシュン絵画のひみつ


― ここにOHPがありますが、イマシュンさんも普段絵を描くときになにかをレンズで投影してトレースしているんですか?

IS まったくそのとおりで。最初に、デジタル上でモチーフを組み合わせていって、それをプリントアウトしたものを手に持って歪ませて、さらにそれを写真に撮って、トリミングしたものを描いてるんです。

だから、抽象じゃなくて具象なんです!w 

― ええええ! そっかー!

IS 明確にモチーフがあって、「写生」しています! 1枚の絵に至るまでに100、200のトリミングパターンの組み合わせを経ていますね。

― 知らなかったです! じゃ、投影先のキャンバスの大きさによってもトリミングが変わってきますね。

IS そう。だからキャンバスの大きさを先に決めますね。それと、使う色を決めます。レンズ越しなので、ピントが合わないところもあるし、影になるところもありますが、絵にするときにはフラットに描きます。色と形だけにします。でも、版を起こしてシルクスクリーンにしたとしてもこんな絵にはならないんです。エッジが均質になってしまう。

GK これらは連作としてあるんですか?

IS 展覧会によるんですが、だいたい一つのモチーフ元の組み合わせを作って、切り取る場所や大きさが全部違うけれども、キャンバスには必ずそのどこかが描かれているように構成しています。たまに、元モチーフを布にしてドレープみたいに歪ませて彫刻的に置いておくこともあります。

― あ、だからエプロン作ったんですか!?

IS そうそう!LPACKとなにかやるってことになって、じゃエプロンがいいかと。ドレープができるから。でかい展覧会できたときには、カーテンとかやってみたいですねぇ。

― そもそも、歪みを用いたきっかけは?

IS 2012年頃、仕事で大学にいるとき、ある学生が着ていたチェックのスカートがすごくきれいで!ゆったりしたドレープが良かったんですよ!なにを描くべきか迷っていた頃でもあって、「こんなにきれいなものがあるんだったら、もうこれを描けばいいじゃん」と。その良さを出すのに最適なものを考えて、ストライプに行きつきました。ストライプは絵画でよく使われるんですが、直線が多いんですね。空間を示したりとか。そういう使い方とは違ったストライプになりそうと。なおかつ、オプ・アートでもないような絵画になりそうだなと。強い色を使うんでオプチカルな面白さはもちろんあるんですが。ストライプのエッジに、絵には描いてない偽色が見えることもあります。


― レンズ的リアリティ

― 色の話がでたので、五島さんの方にふると、僕が初めて拝見したのは「FADE into WHITE」シリーズの1作目でした。3DCGなんだけど、影だけでできた映画。白い空間に光源と影だけで存在感を表現していました。

GK 90年代でしたねぇ。当時のCGが情報をどんどん詰め込んで写真や映画と遜色ないのが偉い!みたいな風潮があって、そういう情報インフレとは違うものを作ってみたかったんです。

モデリングして計算上のリアリティはあっても、形をどんどん削っていって、どこまで削れるものか試してみたんです。情報が少なくなることで、逆に気配や空気感が出たらいいなと。

― 集めて、選んで、組み合わす

IS 僕は最初から自分で形を描いたりできないたちなので、最初はネット画像をサンプリングして、それをトレースしてました。自分で形を決めれず、それでも絵を描きたいなら、あるものを集めて描けばいいいじゃん。みたいな。

GK 絵を探す段階では全体の形を決めていないですよね? でも見て、選んでる。選ぶってことはなにかしらの判断があるんですか?

IS 「使えるか使えないか」なんですが、ポルノ画像をサンプリングネタにしていたときは、ひたすら集める。で、だんだん注目するところがライティングとかになっていくんですw 肌の質感飛んじゃって使えないな、とか。で、自分なりのルールだけ設定して切ったり貼ったりしていく。そのルールにだけ従っていればなにを描いても作品になり得る。描く自信がなくても選ぶ自信はあるので、見て、選択すること自体が僕の制作になる。

GK よくわかります。選んでいって、自分のルールを通して形ができていく。

― 作品と言葉

GK 自分の作品をちょっと苦手な英語で説明しなきゃならないときに、気づいたら少ない語彙からシンプルに説明していて「あれ、俺の作品ってこういうことか」と再確認したりします。

IS 英語で説明すると、自分のやってることがすごくわかりますね!

GK むりやり簡単な言葉に押し込むんですよね。

IS 簡潔に言えるぐらいのことのほうが作品の強度があると思うんですよ。日本の作家の多くはテクニックもあるからかなんでも詰め込んじゃいがち。結果、焦点がぼやけてしまう。

「画家の不在」ってタイトルについては?

GK もともと、レンズについての作品をやりたかった。「見る」ことと「映す」ことの差みたいな。今回、一歩踏み込んで、神さまの創造だか偶然の産物だかで光が屈折してできた“現象”“法則”そのものを提示したいと思ったんです。で、この世界そのものもたまたま誰かの創造の産物かもといった気持ちに導ければ。だから小道具を使ったりして演劇的にみせてます。廃墟化した画家のアトリエに“現象”が残されていて、それをみつけた我々が、その仕組を作った誰かの不在の間に遊ばせてもらっている... 絵を描いたわけでもないのに像ができている“現象”に気がつくと、“現象”に創造性や意志を力を感じてもらったら。また、「見る」「映る」が近づいて主客が混乱してもらったら勝ちですねw

IS そこに気づけたらすごく面白く見れるんだろうなと思います。むかし、大学の先生に「入り口を作れ」って言われたんですよね。デカイ!でも派手!でもなんでもいい。それで一瞬でも足を留めてくれたらもう勝ちだよと。足を止めさせる入り口を作る呼び水ってすごく重要だと思います。

― 鑑賞とは

GK 個展ではレンズについて3つの部屋を考えていて、最後の部屋でメタ構造になるようになることも考えています。ただ、ストーリーをつけすぎて既存のイメージにはまりやすくなってしまわないようにしたいんです。

IS バランスが難しいですよね。絵画も、それ単体で存在していたとしても見る人がいないと存在していないのと一緒で。

GK 飾られている場所や、前後の作品にも影響されますよね。

自分の作品を作っているとその関心領域の感度が強まっていって、お客さんがついてこれるのか心配になることもあります。

IS 全員に面白いとおもってもらうのはまず無理、だし、日本だと美術って「なにかを表現しなきゃならないもの、感情とか思いを伝えるもの」とされているけど、そ~じゃないだろ!と僕は思うんですね。絵の理解に至るにはまず歴史を勉強しないと。興味があるものじゃないと理解はできないし、理解すれば興味がより深まる。自分の興味を押し付けるのは嫌だけど、僕はこう考えたけどあなたはどう見る?という態度が美術の面白さで、先行事例を調べて作家の理解に厚みを増したりするのは豊かなことだなと考えています。

― 「こいつの元ネタが知りたい!」っていう興味。レンズの話では、ホックニーはカメラ・オブスクラと写実の関係を随分研究していたようですね。

IS はい。その前にはフェルメールも。光学原理を理解した上で、あらためてフェルメールを見ると、人の目でこうは見えないようなディテールに気づくんです。肉眼で見たのかレンズ越しに見たのか考えてみるのも面白い。

GK そこらへんを選択、解釈してるところに画家の意志があるのでしょうね。絵にするところでレンズを、写真を解釈している。




― レンズは面白い!

IS レンズって面白いですよね。普通、どこかを見ていたら四隅はボケているけど、視点が動き続けることでパンフォーカスのように脳内補完してしまっている。けど、今回のようにレンズの作像をあからさまにみせられると「あれ?」ってなる。そこにあるものが映っているのに、そこにあるものとちがう感じがしてしまう。その差が違和感として見えるのが面白いです。

― 眼は動くし、留まっていると網膜が披露して色の見え方も変わりますね。色については?

IS 色は難しいです!ヨーロッパに行ったらまず光が全然違う。そもそも瞳の色が違う!

GK 映像でも絵画でも、一応人間の分かる範囲の(可視光線の)波長で作られていますが、全く違う感覚器官や知性をもった宇宙人とかが見ていたらどれほどのズレがあるのか、興味あります。光ファイバーを束ねて複眼の様にみるとか、発行体をデカい印画紙で包んで感光させるとか、ヒトでない知覚を体感してみたい。

IS 絵画でよく身体性が言及されます。例えば大型の抽象絵画で、画家の体の動きや筆運びを見ることで追体験する。それもあるけど、僕は観客の作品を見る眼の動きこそが身体性だなと思います。眼がずっと動き続けて色や形を追う。見てる人がいて身体性が完結するものではないか。画家が不在でも、見る人がいて、やっとその現象が現象として認識できる。


― 映像は消え物?

IS 絵や彫刻にとってサイズってすごく重要になりますが、映像には決まった大きさがないと聞いて興味深いのですが、どう考えているのですか?

― 興行者、企画者の認識としては、映画(動く絵)はもともと奇術の出し物で、ファンタスマゴリアみたいに一瞬幽霊をみせるような錯覚の消え物なんです。カチッと点数がわかる物性を持った品というより、一瞬幻覚を見せて消えてしまう興行のもの。「恐竜ガーティ」などは劇場の寸法に合わせた描画をして恐竜の大きさを表していましたけどもそれはレアケースです。

IS 美術としての映像はどうですか?

― シアトリカルな上映のオルタナティブとして展示空間で特殊上映をしたりループ上映をしたり、また、メディアやデバイスが変わると表現方法も変わります。ビデオソースでもモニター再生ならばパイクさんのように積み上げてビデオスカルプチャーとするし、プロジェクター投影ならホワイトキューブの1面に映像だけがあり、モノ感を出さず絵画のように鑑賞したり、大きさや数の自由度も増しました。インタラクションが加わるか否かという分かれ目もありますね。でも僕の中では錯覚を扱っている意識は変わらないです。

GK 映像を作ってる人間としては、普段はあまり考えないのですが、やはりデカく映すと気持ちがいいです!一方で、再生環境によって色もサイズも変わるもんだと思っているので、仕事で作る映像などはいろんな環境でも破綻のない様に作ります。変わっちゃってもいいものだと考えています。

― やっぱりレンズは面白い!

GK レンズやカメラ・オブスクラっていうのは光を集めるというより、光を遮って抽出するともいえますよね。

IS トリミングですね。これがたくさん置かれているわけですか?

GK そうなんです。60個くらい。自分―レンズ―キャンバスの位置に立つと、その人は絶対にキャンバスが見えない。

IS ですよね。そうなんだよなぁ。うーん。あ、そうかそうか! そこに座っている本人が画家、だとして、その位置では自分が不在になるともいえますか。絶対に自分が見えないってすごいな。

GK 自分の像が見えないというのは、実は自分の黒目を見てるんですよ。それがわかったときはグッときました。

― これは盲点とは違うんですか?

GK 盲点ではなく瞳孔ですね。盲点は視神経の束がまとまっているところで、網膜細胞が置けないところ。

― ほほ~!

GK 自分の瞳孔の拡大された投影像を見てる。視覚のハウリングみたいなもので。まぁわからなくとも楽しいのですがわかったら一歩踏み込んでもらえる。レンズの向こうのキャンバスは網膜と同じなんです。レンズを通して、キャンバスに見られてる。って僕もまだ整理できていないです。

IS だから面白いんでしょうね。答えはひとつでないでしょうし。わかった気になっちゃうのがいちばんもったいないですよね。自分の考えを疑いはじめるとどんどんハマる。

― どこまで作品を説明するか、バランスが難しいですね。

IS 「この絵なんですか?」って言われて、「いやぁ、シマシマがグニャグニャしています」って返しました。「何をやりたいんですか?」と言われたことも。「アメリカの戦後の美術に興味があります」と答えました。わかってくれる人はわかるし、そうでない人はわからない。「なんでいまさらこんなことやってるの?」とも。でも、それを言った時点でその人の見方は終わってる。かつてやられた興味深いことを僕がアップデートすることでどういうことが起こるかが大事で。

今日みたいにレンズを前にした新しい発見があり、それを知ってから世界が全然違うものに見える。そういうものはどんなところにでもあると思って。それを知覚できるものにするのが作家の仕事なのかも。


(聞き手、構成:澤隆志)



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