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  • 澤隆志

#2 森村泰昌

最終更新: 2020年10月21日




森村泰昌(もりむら・やすまさ)

1951年、大阪市生まれ。京都市立芸術大学美術学部卒業、専攻科を修了。1985年にゴッホの自画像をまねたセルフポートレイト写真を発表。以降、美術史上の名画や往年の映画女優、20世紀の偉人たちなどに扮した写真や映像作品を手がけ続けている。映画出演や文筆活動にも精力的に取り組み、2014年には横浜トリエンナーレのアーティスティック・ディレクターを務めた。近年の個展に、「Theater of Self」(2013年、アンディ・ウォーホル美術館)、「森村泰昌:自画像の美術史—「私」と「わたし」が出会うとき—」(2016年、国立国際美術館)、「The History of the Self-Portrait」(2017年、プーシキン美術館)がある。また、パフォーマンス「芸術家Mの『にっぽん、チャチャチャ!』」が、フランスのポンピドゥー・センター・メス、東京のリーブラホール、NYのジャパン・ソサエティで上演された。

2020 9/13モリムラ@ミュージアム

「北加賀屋の美術館でマスクをつけられたモナリザ、さえも」展会場にて収録  https://www.morimura-at-museum.org/


― レンズと対面

五島一浩(GK)立つ位置によってモデルにもなれるし観察者にもなれる、けど一人で両方はできないんですよ。

森村泰昌(MY) あぁこの位置に立つと像が見えず。一人で両方はできないんだ。ものすごいストレス溜まる!




― なんで映画じゃないんだろう?

―  僕のモリムラ体験は写真より先に書籍や映画「ギ・装置M」でした。大阪で「「私」と「わたし」が出会うとき ー自画像のシンポシオンー」を拝見して、メディアや上映形態の違いはあれど、映画で再会したような気分でした。映画の印象は昔から強かったのでしょうか。

MY 映画は子供の時分にみた「真昼の決闘」がすごく印象強くて。映画ってエロティックなものだなと感じ始めました。ゲーリー・クーパー! また、銃やベルトや馬具などのフェティッシュなヌメっとした感覚をそれとなく感じていたんでしょうね。フィルムそのものにも感じていたのかなぁ。

後年、長編映画「「私」と「わたし」が出会うとき ー自画像のシンポシオンー」を作ったのですが、映画関係の方に「これは映画じゃない」って言われて(笑)

ー えー! それ、なんですかね... 監督、脚本、主演ですよ!

MY そこがわかないんですよ。「なんやろう?」って。いわゆる“実験映画”もやっぱり”映画”で。アンディ・ウォーホルの映画も、やっぱり「映画」ですよね?!

ー 映画です!!

MY 以前水戸芸術館で黒沢清さんたち映画関係者とのトークがあって、そのときは完全にアウェイでした。というのもお客さんが完全にシネフィルで、映画とはこうあるべきみたいなものを強く感じ、そこからずれてしまうと話が噛み合わなくなりました。

GK まとまったボリュームのあるストーリーを「映画」に求めるのかも。

MY ゴダールの「パッション」を観ていたら、「物語がなければ映画じゃないんだ!」みたいなセリフがあって、まぁヌーヴェル・ヴァーグはそれを壊しているわけですけれども、でも、むっちゃ“映画”やん!(笑)ストーリーの有無は映画とは関係ないんじゃないかと。

MY 五島さんは実験映画を作ってきておられますが、最近作は、どういうふうに自作を捉えているのでしょうか。今もやっぱり映画をやってるという感覚なんでしょうか?

GK メディア・アート、ですかね。今僕が見せたいのは(映)像のほうではなくて、しくみなんです。光が飛んできてどう変わっていくか、光源や作像という前後のことよりも、できつつあるところをテーマにしたいんです。この前に作った“現象”作品が「これは映画ではないらしい」です。映画がコマでできている前提を疑ってみました。

https://youtu.be/E4i-3Pc6nCE

MY これは映画ではない、らしい。なるほどこれは映画、のような気がする。

ー マグリットではない、らしい。

GK まぁ後付なのですが、「これは映画ではないらしい」は映画原理や制度からはみ出したいという気持ちがありました。具体的には、コマの制約ですね。今まで作ってきた映像作品は、誰かが発明したフォーマットの上で成り立っている。今回の「画家の不在」も、そこからはみでて、結像というただそれだけの原理を見てみたいと思いました。レンズを置いただけで像が現れるという新鮮な驚きをただただ味わうということをしてみたい。どういう原理に基づいて僕らが普段ものを見、ものを考え、ものを作っているのかを捉え直してみたいんです。できることならアナログで、物理的に。

ー 鏡の歴史、自画像の歴史

ー 自分の扱うメディアに意識的になるのは作家の必然だと思うのですが、森村さんはどんなふうに絵画、自画像を意識的に扱われてきたのですか?

MY うーん。五島さんがレンズを取り上げていたように、僕にとって(僕だけではないけれど)「鏡」はとても重要な視覚メディアなんです。自分を認知するにはメディアがいる。人間にとってその唯一の道具が鏡だったと言っても過言ではなかった。鏡が生まれないと「私」っていう意識も生まれないですよね。水面の反射像をくっきりはっきり映したい。精巧な鏡が誕生する歴史と、自画像が生まれる歴史は、西洋では一致するんです。ビジュアル表現のスタートはなんといっても「鏡」なんですよ。

鏡に映っている対象が鏡の前から移動してしまうと像が消えてしまう。うつろいやすいものなのでしっかりと留めたい気持ちになるのは当然でしょうね。鏡が最初は絵画に置き換えられ、写真に置き換えられ、やがて映画に置き換えられる。鏡の変遷史がメディアの変遷史でもあると考えてもいいのではと思います。15世紀あたりから21世紀はじめくらいまで、眼の時代、視覚情報重視の時代で、その根本には「鏡」があるのでは。

GK 鏡が出現するまで客観的な自我ってなかったかもしれないですね。

MY それまでは私って何?ってわからなかったでしょう。おぼろげな自分を、もっとはっきりさせてほしい。その役目は、かつては神様がやっていた。鏡がでてきて、パキッと自分の姿が突然はっきりしちゃった!自分で自分をリアルに見てしまった!そこから自己を見つめ、気にしだす時代になってしまったのでしょう... 

ー では自画像に“なりたい”ってなったのは、なにがキーだったのでしょう。

MY これは... 後付かもしれないけれど。

画家の自画像を観るというのは奇妙な体験なんですね。たとえばゴッホの自画像を私自身が見ている状態を想像してみます。ところで大抵の場合、自画像を描く画家は鏡を見ているわけですよ。そうすると、鏡目線になる。で、自画像ができました、その前にはかつてはそれを描いた画家がいたはずですね、でも今は画家はもういないんですよ。で、そこに鑑賞者がきました、そして絵と対面する。そしたら絵の中の人物と目があってしまいますよね!

ー ワハハハハハハ!

GK 自分が映っているはずなのに、ゴッホが映ってる鏡になってる。

MY そうなんですよ。ゴッホの自画像をゴッホ自身が描いている場面では、絵=鏡というふうに置き換えてもいいんだけど、僕がゴッホの自画像の前に立ったら、ぼくがゴッホになるのか、ゴッホが僕になるのか。

ー どちらかしかないんだ!

MY というか、その両方がダブルイメージみたいになってくるんですよ。その変な気分というか、自画像を見る感覚を自分なりのやり方で組み立て直してみたら、こんなことになってしまった、というのが自分の試みている作品の構造かなとは思います。

ー 私がゴッホになってるのでもあり、ゴッホが私になっているのでもある。

MY そう。鑑賞者はモリムラ作品を観て、「あ、ゴッホだ」とかいうんです。かつ、「これは森村作品である」とも。そういうダブルイメージ。

GK 著作の中で、ゴッホが自分に憑くわけじゃなくて森村がゴッホに取り憑いていると書かれていましたね。

MY お互いに入れ子になるんですよ。


ー フェルメールの時代のハイテクノロジー

GK 「画家の不在」でやりたかったのは、こんな感じです。

森の中の廃墟に迷い込むと、そこに残されたレンズが、ただ像を結んでいる。誰も見ていなくても、誰の意志もないのに「絵」ができる。ひょっとしたら、このレンズ自体が考えてるんじゃないか、という疑問が浮かんでくる。見るという行為は、意思を持った存在の特権であって、見る(あるいは感じる)事自体が意思の象徴ですらあるのですが、それが揺らぐ感覚を味わってほしいと思っています。

MY 五島さんの説明を聞いていて思い出すのはフェルメールですね。あの人はカメラ・オブスクラが大好きだった。確実にそうだったと思うんです。画家たちは通常、遠近法を確実なものにするために用いるんだけど、フェルメールの興味はそこじゃなかった。おそらくは、カメラ・オブスクラや大判カメラの焦点面を初めて覗いたときの驚き。むこうに現実の世界があって、レンズを通して画を結んで、でもそれが(面に)全部光になって現れている。この覆いのなかの小さな世界にすべてがあって、現実に人が動いたらこの中でも動いてる。それってめちゃくちゃ面白い!

現実の世界が小さな光になる、そうしたレンズを通した最初の驚きが、しかしだんだん麻痺して単なるツールになって行くというのが一般的な傾向なんですね。でもフェルメールは初期衝動を忘れずに、なんとかこの”全部が光になっている”世界を形に残したかったのではないかな。すごくモダンな感覚だったけれど当時の人には理解されていなかった。彼だけは光学的な世界に反応していたと思うんですね。

五島さんの作品にも「あぁ、光。ええなぁ。」ってあるような気がします。また、動いている感じするんです。像は静止していても、時間の前後を感じる。fixした写真的な感じより、光がやってきてフォーカスがあってくる感じ。イメージが生成する場所みたいな。あるしくみや機械が生まれたときの驚きは鈍麻するけど、それを掘り下げて、違う可能性を見出すところに興味があるのかなぁと。

ある種の快感、をフェルメールにも五島さんにも感じています。

ー ミラーイメージ

ー 単純な疑問なんですが、自画像ってみんな鏡像、反対に描くものなのですか?

MY いろいろなんです。ゴッホの「耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)」については、鏡像です。そういう人もいれば、正像に戻す人もいる。こっちの方が多いです。その意味では、まったく写真なんです。右利きの画家が、画家としての自分を描くとき、右手で絵筆を持つ。それを鏡像にしたらおかしくなっちゃう。写真のできる前からすでに写真的意識があった。

僕も昔、自分の顔に(ゴッホなど他人の)自画像を描くとき、手元に写真を置いて鏡を見て描いてたら全部逆になっちゃってた!

だから、以降は顔の下に写真を貼って、両方を鏡に映して描いています(笑)面白いんです。

GK 素敵な話です。

MY それで、高精度のデジタル写真がまだ開発されていなかった頃は、チェックのために、4X5サイズのポラロイド写真も本番と同時に撮っていました。セルフポートレイト撮影って、はじめに見せてもらった「画家の不在」じゃないですけど、カメラの前に立つ僕だけが自分自身を見られないんですよ!

ー おんなじだ!

GK 写真であるっていうことは、見えないってことなんだ。

MY 見えない。自画像(絵画)の場合だったら、鏡ー私ー絵画で、鏡←→絵画が鏡像関係になって、そこにみえない「私」があるけれど、写真の場合は、撮影時には「私」はいない、まさに「不在」なんです。見えない。でもなにかが、あちらに像を結んでいる。

2つの鏡、目の前の鏡があって、ポラロイドの鏡がある。で、「ほんまもん」は暗箱の中に隠されてしまっている!

GK カメラに見られているときは、ただ見られるだけの存在。見る側の立場だったはずが…

MY 見られるだけになっちゃうんだよ。見る存在としての「私」は後からやってくる。


ー セルフィー

MY スマホの自撮り、あれ、鏡像になってるの一瞬わからなくて。面白かったのは、その後、映画撮影で(正像の)モニター見ながら「ん?」と。どっちだったか混乱してしまって!

ー それ、質問したかったんです。スマホって、スクリーン(鏡)とカメラがほぼ同じ位置にあるから、手鏡で撮ってそれを見てる状況ですよね。スマホのセルフィーについてなにを思いますか? 

MY 僕は最近セルフィーしてますよ!これって面白いなと思う。鏡に戻ったようにも思うんです。リアルタイムで映してくれる鏡。自分って何? どうあるべき? に回帰してる。自画像は特権的なものだったけど、これはカジュアルに誰でもできちゃう。

ー リアルな自分を見せつけられると、やっぱり理想との差に愕然として、セルフィーでも「盛り」をしてよそ行きにします。森村さんは他人の自画像を自分の顔に描画するわけですけども、森村さんにとって絵画はメイクとどう違うんですか? これはメイクじゃないですよね。

MY メイクですよ。

ー メイクですか!

MY 僕がやっていることは、「盛り」をする人と基本的には変わらないです。違いがあるとすれば、極端なデジタル加工の有無かと。そこで一線が引かれる。

視覚情報優位の時代もそろそろ終わりかなーと思います。眼からの刺激をテーマにするんじゃなく、データの世界。これ、もう見えなくてもいいわけです。その予兆みたいなものが「盛る」って作業かなと。データ上だと、「私」という概念もかわるんじゃないかな。今は顔認識の時代だけど、そうじゃなくなる。

GK 鏡が生まれて、自画像がうまれた。鏡で始まった自画像の時代も終わると。

MY そう思っています。「画像データ」って言い回しが好きで。画像なんやけどデータなんや! 過渡期的な表記で面白い。かつては絵画とかポジとかたしかなモノがあったけれど、今はデータ・ファーストですね。表示された画像よりも、見えないデータの方が大事になってきた。現実の、のっぴきならないなにかではない。



ー 無意味の領域、誤読のすゝめ

MY 今回の展覧会(モリムラ@ミュージアムで開催中の「北加賀屋の美術館でマスクをつけられたモナリザ、さえも」)ってなんだろうと改めて考えると、nonsense, no meaning、無意味の領域がテーマなのかなあと。現代美術の傾向として意味に囚われすぎなものがものすごく多いんです。中世絵画の寓意のように、現代美術でも「なぜ、ここにこれを描いたか」に答えなければならない。だからキャプションもやたら長くなって... みたいなものが山のようにありますね。それはそれでわかるんだけど、意味が効果、効能になってしまったら単に価値観の世界ですよね。

トルソーがくしゃみしたり、絵にマスクがかかっていたり、今回の作品はまったくもってnonsenseなんです。でもねぇ、世界中の人がマスクをしてるイメージは異常だし、それを強引に新しい生活様式などと呼ぶべきではないとは思うんです。ところがマスクにもだんだん慣れてきて、おしゃれアイテムにもなったりして。その世界を延長していったら、モナリザまでマスクしなきゃいけないぞ、みたいなnonsenseになって行く。

女子高生がアベノマスクをデコってるらしく、僕もリサイクルできる作品を作りました。負けてられないぞと思って。明確な意味から漏れ落ちるものを拾って、意味を脱臼させたいですね。


MY 一般的に絵画をテーマに作品を作ったり、研究したりするとき、現物(オリジナル)を実見することが求められますね。僕は全部印刷物です。画集とか、全部色が違う(笑)

だから自分の好きな資料でイメージ膨らませます! 後で現物みたらあんまり感動しなかったり。いわゆる「誤読すること」ってとっても面白い。ゴッホだって日本大好き、なのに一度も日本に来たことない。でも日本大好き! 日本趣味の花魁の絵も描いていますが、花魁のことわかってなかったかもしれない。それは全然OKだと思うんです。作る人の特権ですね。




ー つぎのMは?

ー マリリン、マドンナ、マイケル、ミシマ....「Mの肖像」で取り上げる有名人、次は誰を考えていますか?

MY Mは結構多いんですよ。三宅一生さんとか松岡正剛さんもテーマにさせていただいたことがあります。これは、ご縁なので、自分から選ぶことはありません。

ー 僕の勝手な予想は、宮崎駿なんですが...

MY 宮崎駿はね、一作も見たことないんですよ。

ー おおお。あえて?

MY あえて。作品の好き嫌いではないんですよ。感受性って、いろいろ見ることによって育つ感受性もあるけれど、見ないということによって育つ感受性もあるんです。世界中の人が見ている作家なので、見てしまうとその感受性が皆と同じになってしまう。

GK 一番面白い映画は、人から聞いただけで妄想が膨らんで、まだ見ていない映画なのかもしれないですね!

(聞き手、構成:澤隆志)


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